退職して思うこと

  33年間にわたり勤務した職場を離れるにあたり、当院眼科が世界的な眼部悪性腫瘍の診療センターに追い付くために、何が欠けているかについて私見を述べさせて頂きます。
1.診療のあり方
1)全身麻酔の間題
  3才以下の乳幼児に発症する網膜芽細胞腫患児の我が国における受診のシェアーが75%にも達するにもかかわらず、全身麻酔が欧米と比較して十分に行えない状況は誠に遺憾です。眼球内部を隈無く観察するためには強膜圧追器で網膜周辺部を内側に押し込む必要が有りますが、これには点眼麻酔では耐えられない痛みを伴います。
そのため先進国では□帰りの全身麻酔下で眼底検査を行うことは常識となっています。ところが当院では、バスタオルで体動を拘束して、看護師と親の二人がかりで泣き叫ぶ患児を押さえつけて診察せざるを得ないのです。
 治療についてみても、眼球摘出を含む全ての治療を行うためには、全身麻酔が不可欠なのは勿論です。毎週眼科が使用できる麻酔の枠が5件しかない現状では、待ち時間が1…2ヶ月と長くなり、小さいうちなら現在使用できる治療手段で問題なく治癒できる腫瘍も、その間に増大したり或いは活性を取り戻して、眼球保存が不可能になる場合も少なくありません。眼球保存療法では、腫瘍細胞を死滅させて眼球を残すだけでなく、視機能を出来るだけ良好な状態で温存したいわけです。網膜は再生が不可能な神経組織であるため、腫瘍の浸潤が広がると、それだけ視機能が損なわれているのです。現在の治療手段は腫瘍を不活化する力が十分強力でないため、一回の治療だけでの治癒は多くの場合困難です。このため一人の患児に何回もの全身麻酔が必要となります。眼科の治療は全身的な侵襲がそれほど高くないため、日帰り手術が可能です。ですからアイソトープ治療病床を除けば、必ずしも病床を増やさなくても、麻酔さえしていただければ、効率よい治療が可能です。ただし、このためには麻酔後の同復室の充実が必要です。パリにある施設では2時間に11人の検査と治療が行われておりました。フィラデルフィアでは月曜日に来た新患7名が、翌日の全身麻酔下の検査や治療が可能でした。ここは外国からも多数の患者が訪れる施設ですので、このような対応が可能なことは、むしろ当然のことかもしれません。
2)医療機器整備の間題
 眼科関係の医療機器の整備が不十分なのは大きな問題です。眼部悪性腫瘍は頻度が低いだけに、国内では他施設に患者を紹介する事が出来ないのが現状です。国立がんセンター病院が、我が国のがん治療のセンターであるのならば、眼部悪性腫瘍の診療に必要な医療機器は完備されていなければ、外国に診療を受けに行かざるを得ず、国民の福祉に貢献することは出来ません。日進月歩で医療技術が進歩している時代に、先進国と比較して恥ずかしくない、最高の診療をする必要があります。何も最新の機械を購入しろと言っているのでは有りません。先進国で標準的な治療とされている最低限のレベルの物が無いと言っているのです。具体的には下記の三種です。
i ) 強膜縫着小線源治療に使用するI-125の線源
 当院で使用しているRuthenium-106の線源はβ線源であるため、厚さが6mm程度の腫瘍しか充分に照射出来ません。北米で、中位の大きさの脈絡膜メラノーマの治療を眼球摘出とI-125の強膜縫着とに650名ずつ無作為に割り付け、12年間にわたり生存率を比較した臨床試験を行ったところ、全く違いが無かった事が判明しました。62億円の費用がかかったようですが、重大なエビデンスです。
ii) 超広角デジタル眼底カメラ(Ret-Cam,Panoret1OOOなど)
 腫瘍性病変は盛り上がりがあり、広範囲に広がっていることも多く、また視機能に重要な黄斑部や視神経乳頭と腫瘍との位置関係がよく分かることが重要で、どうしても広角眼底カメラが必要となります。正確な眼底の記録をとることは、患者に病状を見せて理解を深める臨床的な目的の他に、治療の妥当性を客観的に解析出来ますし、研究発表に欠かせません。小児の場合は麻酔下で鎮静した仰臥位で撮影する必要があるため、特殊な眼底カメラとなります。
これまでは、私がメーカーに特注してカメラを台座から切り離して、手術用顕微鏡の架台に取り付けた物を使用していました。架台と大きな電源部がコードで繋がっているため、「親子」と手術室の看護師さん達が呼んでいた物です。最近はだいぶ老朽化してきて更新する必要があるのですが、PL法の関係でメーカーが改造をしてくれないのです。現在カメラはデジタル化しており、すぐ映像を確認出来る事や、プリントがその場で可能であり、フィルムと比較して、保存のためのスペースが非常に少なくてすみ、しかも整埋してあれば、目的の写真を探し出すのが簡単です。
iii) 硝子体手術装置
 眼科領域の手術では、硝子体に関する治療法の進歩は目覚ましいものがあります。これまでは、硝子体出血や網膜剥離、糖尿病性網膜症などの治療応用が華々しい発展を見せています。これからは、眼球内腫瘍の治療法として非常に重要になると思われます。特に腫瘍だけを眼球内部から切除する局所切除術が眼球保存治療において重要です。眼科の硝子体手術装置は消化器や呼吸器科領域では消化器内視鏡や気管支鏡に相当するものです。是等の科で内視鏡が無しで診断や治療を行う事を想像で出来ますか? 時に見られる中枢神経悪性リンパ腫の生検にも硝子体手術装置は欠かせません。
2.人員の問題
 医師については、私の退職後に当院眼科が5年前の常勤医一人の体制に舞い戻ろうとは夢にも思いませんでした。33年間の私の努力で、我が国における眼部悪性腫瘍の診療の集中化(centra1ization)が曲がりなりにも実現し、外来全身麻酔も週に1回だけは可能になり、東病院に眼科の医師が見つからないので、治験に差し支えるからと泣きつかれ、週に半日だけ中央から出張するようになった状態で、そのような事が全くなかった5年前に戻せというのは、眼科診療の実態を全く理解していない愚挙としか思えません。全国公募の結果、遠方から単身赴任でも良いから眼部悪性腫瘍の診療に取り組みたいという意欲にあふれた人材がいるのに登用しないとは!!!
 眼科の検査技師については、国の資格試験として視能訓練士があり、当院では第1回の試験合格者が非常勤職員として、奉仕活動に近い待遇で勤務していただいています。彼女の人柄で何とかなっていますが、将来的には常勤の検査技師を配置し、眼部腫瘍患者に固有の視機能の問題について取り組んでいただくべきだと考えます。
 外来看護師については、単に夜勤出来ない看護師のたまり場となっている現状は憂慮すべき状態であり、眼科専門の看護師が少なくとも2名いて、患者やその家族と長いつきあいの仲で育まれる経験の中から、専門家としての研究をしていただける体制になって欲しいと思います。種々な理由から退職された看護師さんが網膜芽細胞腫患者の親の会主催の送別会に参加されて、「眼科が最も好きで、長く居たい職場だった」と言われたのは,単に私に対する儀礼的な言葉かもしれませんが、看護師さん達の思いも同様なのでは無いでしょうか。
4)委員会等の会合が多すぎる事
 人員の数とも関係が深いのですが、当院での活動は基本的には、臓器別に別れて行われるため、病院全体に関係する問題について、各臓器の代表が会合に参加する事が義務のようになっています。これは民主的で良いのですが、一人医長の場合はすべての会合に参加しなければならず、眼科のように火曜日と金曜日に夕方近くまで手術が有る場合は診療に差し支える事になります。定足数が決めていないので、欠席してもすぐに不利になる事は無いので、余り心配せず、私は手術場連絡会以外は出席した事が有りません。しかし私の後任の鈴木茂伸先生は、私と大違いで、大変生真面目な方なので、どのように対応してくれるのか心配しています。
(東邦大学大橋病院眼科 金子明博〕